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書道の歴史
各時代の書について、簡単に分かりやすく解説しています。 執筆:小池青皚


後漢(二)
 書道史における隷書の各書風の概念は、当初、後漢前期には八分隷は存在せず、古隷のみが横行し、後期に入ってはじめて生まれた八分隷が古隷を滅ぼして主流の座を奪ったと考えられていました。しかし、現在では八分や古隷といった書風は地域・時代を問わず、各々が同一の時空間に共存し合っていたことが証明されています。

 ただ、書風の変遷を大局的に見てみると、桓帝期(147〜167)以前とそれ以後に大別することが出来、桓帝期以前は古朴で情趣的な古隷風が多く散見出来るのに対して、桓帝・霊帝(167−189)時代の約40年間に建碑された刻石では、八分隷が主流となっています。

 この期間の中で見ることのできる刻石史料は実に多数存在しており、この40年間は書道史にとって、また、隷書法を解明する上においても、決して避けては通れない時代といえるでしょう。

 隷書は、秦時代に完成した大篆・小篆という公式の標準体に対して、日常の実用書体として発生・開発されたと考えられており、その後、漢時代に入り篆書の後継者として公的な役割をも担っていったのです。やがて王制の権威の安定とともに、威風堂々の華麗な様式美を確立した隷書は、運筆に波を打たせながら払い出すという、流媚な波勢を用いた様式を生み出します。その波勢の技法の究極こそが、華麗な装飾美を誇る隷書の一つの完成型といわれる八分隷書(分書ともいう)であり、漢隷の代表的書法として、古来より隷書の基本的筆法を習得するためのテキストにも用いられています。

 「八分」という呼称は三国時代になってからとされており、漢代では古隷・八分の分別はなく、総称して隷書と呼んでいました。また冒頭に述べたとおり、近代まで、八分様式の発生は後漢に入ってからといわれていましたが、近年になって発見された簡牘類や石刻の新出土資料により、八分が既に前漢初期に存在していたことが確認されており、今日では常識となっています。

 八分隷は、古隷と同じく、横画が水平、縦画が垂直であり、字形は扁平を基としていますが、その最大の特徴は、波勢による流麗かつ装飾的な波礫を有するところです。この波礫こそが、次世代の公的書体である楷書的要素の萌芽と言ってもよく、八分が隷書時代の最後を飾る様式であったことを裏付ける証しといえるでしょう。

 後漢後期、特に桓帝・霊帝後期における秀碑三百と称される中の大半を八分隷が占めているといわれているように、この時代、簡牘類や画像石題記、闕などを除く銘石類のほとんどは、八分様式で書かれていると言っても過言ではありません。

 その代表的な史料をあげてみると、八分の典型として乙瑛碑礼器碑張景造土牛碑西嶽華山廟碑孔宙碑史晨碑韓仁銘嘉平石経曹全碑。力強く野趣に富んだものに石門頌楊淮表記衡方碑西狭頌張遷碑鮮于。波勢を抑えた肥厚なものに、閣頌、魯峻碑、樊敏碑など、雄偉なものから秀麗なものまで多種多様ですが、その中にあって王曹詔書碑のような古隷の存在があることも付記しておきます。
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乙瑛碑 【いつえいひ】
永興元年(西暦153)。山東省曲阜孔子廟内の「漢魏碑刻陳列室」に設置されている。碑の大きさは182×86cm、18行で毎行40字から成る八分隷の典型である。「魯相乙瑛請置百石卒史碑」が正式な呼び名で、その内容は魯の前相・乙瑛が孔子廟に管理官を常設したいという主旨の上奏文を記したものである。書風は整斉にして謹厳な結構を見せており、筆力は雄健で緊張感を漂わせている。
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図1
礼器碑 【れいきひ】
永寿2年(西暦156)。山東省曲阜孔子廟内の「漢魏碑刻陳列室」に列置され、乙瑛碑、史晨碑と並び孔廟三碑と称されている。その内容は魯相・韓勅が孔子廟を修理した時、祭祀用の礼器を新調したことや、孔子の親族に対し労役を免除したことなどの功績を称えて記念した紀功碑である。165×74cmの四面碑(碑陽・碑陰・碑側左右の全てに字を刻している碑)で、碑陽は16行・36字で構成されており、「魯相韓勅造孔廟礼器碑」が正式名称である。古来、八分隷の最高峰と言われ、隷書の極則と高く評価されているその書風は、結構の精妙さ、線質の厳正さを極めたもので、用筆に装飾的な要素を加え、抑揚と変化を加味しながら充実した力強さを漲らせており、隷書法の基本を習得するための最高のテキストといわれている。
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図2
張景造土牛碑
【ちょうけいぞうどぎゅうひ】
延熹2年(西暦159)。1959年、河南省南陽市において出土。南陽市臥龍嵐漢碑亭に置かれている。11行・総字数225字から成っており、その内容は張景が勧農の行事に用いる儀式の費用を自分が肩がわりしたい旨を上奏したことに対する受諾の公文書の内容を刻したものである。書体は八分で、完全なる扁平な結構で、竪画を極力軽くすることで洗練された上品さを見せている。
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図3
西獄崋山廟碑
【せいがくかざんびょうひ】
延熹8年(西暦165)。陜西省華陰県の西獄廟中に建てられていたが、1555年の地震により亡佚した。現存する原拓は長垣本(北宋拓)、華陰本(明拓)、四明本(明拓)が伝わっている。本文は22行・毎行37字から成り、後漢の光武帝が祭祀のために建立した神祠を弘農太守の袁逢が修復した経緯を記したものである。八分隷で、乙瑛碑に近似した精密さと充実感を持っており、古来より、方整・流麗・奇古の三種を兼ねそなえた漢隷の一級品と称されている。
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図4
孔宙碑 【こうちゅうひ】
延熹7年(西暦164)。山東省曲阜孔子廟内碑廊に設置されている。170×93cmの大きさで、15行・毎行28字で構成、その内容は孔子19世の孫・孔宙の徳を頌えた頌徳碑である。秀麗な八分隷であり、整然とした結構、暢達の筆致で、息の長い横画が特色の流麗典雅な書風を見せている。
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図5
史晨碑 【ししんひ】
建寧2年(西暦169)。山東省曲阜孔子廟内に列置されている。17行・毎行26字の構成で、その碑陽の内容は魯相・史晨が、孔子廟での祭儀の成功を記念したものであり、史晨前碑と称されている。孔子の旧蹟の修復や保護について記した碑陰の方は史晨後碑と称されている。典型的な八分隷で、謹厳にして沈着、温雅で品格がある。
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図6-a (史晨前碑)

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図6-b (史晨後碑)
韓仁銘 【かんじんめい】
熹平4年(西暦175)。1228年、河南省栄陽にて発見され、現在は栄陽第六中学校に置かれている。169×80cm、8行・毎行19字から成り、その内容は韓仁の行政を顕彰するための命令文を刻したものである。書体は八分、筆圧や速度の変化、安定した結構を見せている。
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図7
熹平石経 【きへいせっけい】
熹平5年〜光和6年(西暦176〜183)。経書(易・詩・書・儀礼・春秋・孔羊伝・論語の七経)を勅命により校定させたものを石に刻したもので、開始の年号よりこのように呼称されている。魏の正始石経、唐の石台孝経などの石経の原型とされている。洛陽の太学の内外に46碑が並び建てられていたが、董卓の乱や五代の戦乱により亡佚してしまい、現在、100片の残石を残すのみである。書風は、波勢を極力抑えた謹厳なもので、結構はあくまで方正を基としており、当時の公用書体の典型的書風である。
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図8
曹全碑 【そうぜんひ】
中平2年(西暦185)。明の万暦年間(1573〜1640)、陜西省陽県の城外にて出土し、現在は西安碑林内に設置されている。碑の大きさは253×123cm、20行・毎行45字から構成されており、その内容は曹全の民政に対する功績を頌えた頌徳碑である。書風は八分隷の典型。古来より礼器とともに、漢隷の双璧と称され、数多い漢碑中、屈指の美しい波勢を誇る。隙のない理知的な結構、均斉にして温雅、流美な風趣は漢隷様式の究極と言っても過言ではない。
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図9
石門頌 【せきもんしょう】
建和2年(西暦148)。前述の開通褒斜道刻石と同じく陜西省褒城県の石門崖壁に刻されていた摩崖で、現在はダム建設のために切りはがされて、漢中市博物館に設置されている。その内容は、西羌の侵攻により廃道となっていた褒斜道の修復を推進した楊孟文と、その意志を継いだ漢中太守・王升の功績を称えたもので、204×185cm四方に本文22行を配している。書体は八分隷であるが、礼器碑や曹全碑などの他の漢碑に比して精妙さに欠け、趣が異なる。礼器碑が理知的、規範的であるのに対し、石門頌は自由闊達な運筆で野趣あふれる様相を呈している。「命」「升」「誦」などに見られる長脚体は前漢から後漢にかけての簡牘類の特徴と共通性を見せており、同時代における様式の一つの手法と考えられる。
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図10
鮮于【せんうこうひ】
延熹8年(西暦165)。1973年、天津市武清県で出土、天津市歴史博物館に設置されている。242×82cmの大きさで、16行・毎行35字に配されている。雁門太守・鮮于の業績を頌えたもので、書体は八分で、結構は緊密にして重厚、波礫も堂々たる筆力を有する。
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図11
楊淮表記 【ようわいひょうき】
熹平2年(西暦173)。陜西省褒城県石門に刻されていた摩崖書で、石門頌の南隣にあったが、石門頌と同様に切りとられて漢中市博物館へと移されている。内容は楊孟文と同郷の卞玉【べんぎょく】という人が石門頌を見て感激し、楊孟文の業績をしのび、その孫の楊淮と楊弼を顕彰したもので、190×62cm四方に7行・毎行25字前後で構成されている。書体は八分であるが、一見古隷を思わせる素朴さと野趣を持ち合わせており、その伸び伸びとして洒脱な書風は書法にとらわれない日常書写的な筆法が感じられる。
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図12
衡方碑 【こうほうひ】
建寧元年(西暦168)。当初、山東省上【ぶんじょう】県の畑の中より発見され、1859年に何紹基(清代の能書家)によって上県の学宮に移された。現在、山東省泰安市の泰廟内に設置されている。その大きさは165×100cm、23行・毎行36字から成り、その内容は衛尉卿に昇進した衡方の徳を頌えたものである。八分隷で、竪画を太く、結構を方形にとり、懐を広くとることによって堂々とした重厚さを出している。張遷碑に比較的近い書風であるが、衡方碑の方が野趣に富んだ感がある。
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図13-a

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図13-b
西狭頌 【せいきょうしょう】
建寧4年(西暦171)。甘粛省成県の魚竅峡【ぎょきょうきょう】に刻された摩崖書である。古来、この渓谷にある淵を黄龍潭と呼んでいることから、この淵の左崖に刻されているこの刻石を黄龍碑とも称している。220×240cm四方の中に20行・毎行20字を配しており、その内容は武都太守・李翕【りきゅう】が西狭の険しい道路を修復した功績を頌えたものである。書風は素朴であり、力強く野趣に富んでおり、結構も整斉にして大らかで、品格あふれ、漢隷中屈指の名品とされている。また、この様式は後の魏晋の隷書へ受け継がれている。
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図12
張遷碑 【ちょうせんひ】
中平3年(西暦186)。明代初期に山東省東阿県で出土。1964年に泰安の岱廟炳霊門【たいびょうへいれいもん】 内に設置されている。315×102cm、本文は16行・毎行42字から成り、その内容は張遷の善政を頌えたものである。書風は雄偉にして古拙、竪長の結構をとり、西狭頌や鮮于碑の碑陰の作風と酷似しており、当時を代表する一書風であろうと思われる。
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図11
魯峻碑 【ろしゅんひ】
延熹2年(西暦173)。現在、済寧市教育局内の漢碑亭に保管されている。177×106.5cm、本文17行・毎行22字が配されている。碑文の内容は、司隷校尉・魯峻の業績を頌えた墓碑で、書体は八分隷、雄偉で重厚な姿態を持っている。
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図12
 
図1 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図2 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図3 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図4 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図5 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図6-a 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図6-b 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図7 『書道全集2』 (平凡社・1958年)
図8 『書道全集2』 (平凡社・1958年)
図9 『書道全集2』 (平凡社・1958年)
図10 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図11 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図12 『書道全集2』 (平凡社・1958年)
図13-a 『書道全集2』 (平凡社・1958年)
図13-b 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図14 『中国書法全集7』 劉正成編 (榮寳齋・1993年)
図15 『書道全集2』 (平凡社・1958年)
図16 『書道全集2』 (平凡社・1958年)
 
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